名誉学術称号30周年記念によせて

K.H.

 第30回「SGIの日」記念提言(以下「提言」)でも、国際社会のさまざまな問題について種々の解決の方途が示されている。今回の「提言」の根底にあるのは、「われ-それ」を「われ-なんじ」に転換するという人間主義の精神である。「われ-それ」という、個と客体とが分裂した主観・客観関係は表層的なものにすぎず、表層に固執することは過激主義、教条主義にむすびつきやすい。国際社会のあらゆる紛争の根本要因である。問題を抜本的に解決するには、「表層を突き抜けた根源的な次元での全人格的な出会い、関係」、つまり「われ-なんじ」という関係の構築が不可欠である。
 この小論では、「われ-それ」、「われ-なんじ」をキーワードにして、貨幣経済(あるいは資本制経済)と環境問題との関わりについて考えてみたい。「提言」では、貨幣や資本の問題への言及はわずかであり(直接に人命に関わる問題ではないので当然であるが)、おこがましい言い方だが、「提言」を補完する意味もこめて、筆者なりの「提言」解釈を示すこととし、その上で池田SGI会長の名誉称号授与の意義を考えたい。
 貨幣というものはその出自からして「われ-それ」関係にもとづいている。このことを貨幣の生成論理から説明してみよう。これはあくまで「論理」であって、歴史的事実とは無関係である。市場取引は互いの所有する財の交換から始まる。交換当事者ABがいたとして、AはBの所有する商品を欲している。Aは領有欲望に支配されており、逆に言えば存在の欠如に苦しんでいる。存在の欠如を満たすためにAは、自己の商品をBに提供して対価としてBの商品を手に入れなければならない。価値関係で言えば、ある量のA商品=ある量のB商品が成り立つ。これは一見対称的な関係に見えるが実は非対称である。領有欲望にかられているのはAだけではなく、Bもまたそうである。存在の欠如に苦しむ経済主体が互いに他者のものを領有しようとするところに成り立つ交換関係は、両者が暴力的な関係に立つことから、AB両者の視点に同時に立つことは不可能である。ABそれぞれの視点に順次的に立つしかない。これが交換の非対称性の意味である。このような非対称的な交換関係の中で、AはBの商品をA商品の等価物として見て、B商品を受動的な立場に置く。あくまでBの商品はAの領有欲望を満たすものとして対象化(「われ-それ」化)される。Bもまた、Aの商品を等価物として受動的に位置づけようとする。結局、市場に参加するあらゆる交換当事者が、互いの商品を自己の商品の等価物として対象化して眺めるようになる。こうした無秩序な状態、各人の領有欲望がむき出しにされた状態は、ひとつの商品が排除され、一般的な等価物としての地位を得ることで解決される。この排除された商品こそが貨幣である。貨幣は、交換関係における領有欲望による混沌から生み出される。領有ということ、それ自体が主体と客体の分裂を内在している。貨幣は商品交換における「われ-それ」関係に起因する紛争を解決するための一種の社会制度でもある。
 こうして成立した貨幣は流通手段として、あるいは増殖を続ける資本として機能するのだが、その機能もまた出自に応じて「われ-それ」関係を体現している。貨幣はあらゆる事物の価値を数量化して認識可能な対象物として外化していく。この貨幣の機能、価値尺度機能は、たしかにメリットがある。たとえば地域通貨にそのことのメリットがあらわれている。貨幣は財の価値(価値とは何かという議論には踏み込まない)を数量化して表現する。このことは取引を非人格化する。あらゆる事象の個性は平板に統一的に表現される。個性に富んだ行為や財の個性が平板化されて対象化(物化、外在化)され、人格的色彩を希薄化する。地域通貨においても、貨幣としての機能に基本的に変わりはない。ボランティア的な行為やシャドウワークを数量化して評価することで、人格的色彩を希薄化するがゆえに、一種のよそよそしさがにじみ出てくる。コミュニティの生活的な価値は、数量化されることで限界を画され、単なる評価の対象物になりかねない。サービスや財の提供は一定量の地域通貨に換わる。その地域通貨は別の財・サービスを入手するための購買力を表現するが、その購買力は数量という形で明確に境界付けられる。このことはボランティア的な行為に殺伐とした印象を与える。地域通貨の導入にあたってボランティア性向の高い人が異議を唱えるのはよく聞かれることである。しかし、殺伐とした印象以上に、ある種の気負いや負い目の感情をまぬかれることができる。かえって「気兼ねの不要な行為」となり取引参加の誘因を与える。やや古い事例であるが、1999年8月23日付け日本経済新聞によれば、1995年に発足した愛媛県関前村のグループ「だんだん」は、送迎や買い物代行、子守などのサービス30分につき1点としてプラスチック製のチップ1枚を渡しているという。グループの主催者は、「助け合いも、遊び心のチップ交換なら気兼ねがいらない。ありがとう、という心の交流です」と語っている。人格的色彩の濃い「助け合い」という行為も対象化されて評価されることでかえって「気兼ねの要らない行為」となる。「われ-なんじ」の範疇と親和的な行為を、あえて「われ-それ」化してしまうことで、逆にボランティア的行為の誘因を高めるわけである。
 貨幣経済には、上記のほかにも多くのメリットがある。しかし、過信は禁物である。「資本の論理」は「世界」と「自然界」との軋轢を増大させる。そこで貨幣経済を人間主義化すること、「われ-それ」型から「われ-なんじ」型に転換することが必要になる。それでは、その出自から振る舞いにいたるまで「われ-それ」化した貨幣経済の傾向性をいかにして転換できるのだろうか。この点参考になるのが、哲学者のエマニュエル・レヴィナスの見解である。『貨幣の哲学』(レヴィナスの講演、論文集の邦訳名)に示された見解を検討してみよう。
 レヴィナスは、経済というものを、他者への気遣いが必然的かつ具体的に受肉したものとして倫理的な仕方で解釈している。他者とはひとりではなく多数存在しており、現実に社会を構成している。この社会とは、分業と貨幣を媒介とした交換によって相互依存的に組織化された経済的全体性である。相互依存的な経済的全体性のなかで人は、互いに出会わずとも交換の組織化と貨幣の流通によって、他者への気遣いを実行することができる。したがって、経済的全体性の中では、貨幣の贈与は他者に対する最大の施しの手段になりえる。かつてわが国の経済援助は金ばかりと批判されたことがあるが、そうした批判は必ずしも正当なものではないということになる。さらに、貨幣は正義を実現する手段にもなる。「目には目を」という同害刑法の原則は、社会的公平を回復する機能をもつが、実際にこのようなことが常態化すると報復の連鎖がいつまでも続き不都合である。どこかで連鎖を断ち切らねばならない。そのための道具が貨幣であって、貨幣を支払うことで関係を清算することができる。一応、社会は静謐になる。このような意味で貨幣は正義を実現する手段となる。そして、他者への倫理的な気遣いを実行する契機として、レヴィナスは「顔」という概念を提起している。それは、ひたすら自己の存在にこだわる「われ」に対する、「なんじ」からの無条件的かつ絶対的な倫理的要請を意味する。たとえば、誰かを殺そうとした瞬間、こちらを見つめるその誰かのまなざしがある。そのまなざしに直面することで、殺す側の人間が本来的に持つ倫理感が引き起こされる。誰かの「顔」は無条件的かつ絶対的な倫理的命令を発するのである。このとき、他者への気遣いは純粋に他者のためになされる。自己満足のためや、振る舞い自体に審美性を見出しているからでもない。この点で、レヴィナスはアリストテレスの徳の考え方に批判的である。アリストテレスの徳は、審美的であることにこだわりすぎており、優越と支配の態度を含んだ自律の域を出てはいないという。レヴィナスは貨幣経済の只中で、「顔」を契機とした倫理的な気遣いを行使する重要性を主張しているのである。
 レヴィナスの思想は貨幣制度そのものを倫理的なものとして解釈する点でユニークである。それはまた、単に思弁の果てに提起されたものではなく、歴史的な事件の中で観察された、いくつかの倫理的行為にもとづいている。しかし、レヴィナス倫理学の意義を認めた上で、このような貨幣経済の人間主義的解釈には限界を感じざるをえない(素朴な疑問だが、レヴィナスの「顔」は間人的な倫理原則であって、そもそも「顔」を持たない自然環境にあてはめが困難と思われる。ただ、筆者はレヴィナス思想の全体に通じているわけではないのでこの点は不明確である)。
 確かに人間どうしの紛争を清算的に解決する点で貨幣は正義の実現に役立つ。しかし、これには毀損された価値の損害が正確に算定されることが前提になる。そして、価値を市場価値とみなすことによって算定の基礎が提供され、正当性も担保される。物的な損害はいうまでもなく、人的損害でさえ、逸失利益という概念を導入すれば市場価値に結びつけることが可能であり、それなりの合理性があるものとして、紛争当事者や社会全体に受け入れられる。それでは、誰の所有にも属さない無主の環境が何者かによって破壊され、その者に損害賠償を請求するような場合はどうだろうか。その場合、毀損された環境の価値を貨幣額で算定する必要がある。しかし、そもそも無主の環境は市場で取引されておらず、損害額の算定は困難となる。そこで考え出されたのが、環境の価値、正確には環境保全の価値に対して人々はいくら支払うつもりがあるか(「支払い意思額」)をアンケートで聞き出し、その集計額をもって環境保全の価値とみなそうという方法である。市場で取引されていない環境が、仮に値段をつけるとしたらいくらか、ということで「仮想市場法」と呼ばれている。われわれはあらゆるものの価値を貨幣量で表現し、貨幣を媒介として事物の価値を間接的なやり方で認識することに慣れている。環境の価値も貨幣を媒介として認識するのが早道というわけだ。しかし、この方法が、レヴィナス的な意味で社会的公平の実現手段として用いられた場合、かえって紛争を長引かせるというデメリットがある。例をあげてみよう。
 1989年3月24日、エクソン社のタンカー「バルディーズ号」がアラスカ沖で座礁し、4200万リットルに及ぶ原油が流出した。その結果、大量の原油が沿岸に漂着し、40万羽の海鳥や3000匹のラッコなどが死亡したと推定された。エクソン社は浄化費用や漁業補償などを支払ったのだが、アラスカ州と連邦政府はエクソン社に対して、生態系破壊に対する損害賠償を請求した。いわゆる「公共信託論」を前提に政府が損害賠償の請求主体となったわけである。訴訟においては生態系破壊額の算定根拠として仮想市場法が利用された。アンケート調査では、回答者に事故の状況が説明され、今後こうした事故を防ぐために、エスコートシップという護衛船を配備しタンカーを誘導するという「仮想の政策」が示された。そして、ひとびとにこのような政策を採用し生態系を守るためにいくら支払ってよいか尋ねた。全米から無作為に抽出された一般市民を対象にアンケートが実施され、有効回答を1043世帯から得た。支払い意思額は1世帯あたり30ドルで、これに全米世帯数9000万世帯をかけたところ、集計額は28億ドル(約3700億円)となった。この28億ドルが賠償額の算定根拠となったのだが、裁判では算定方法の妥当性をめぐって収拾がつかず、結局裁判外の和解という方向で解決を図らざるをえなかったのである。無主の環境は市場価格を持たないために説得性を持たず、実際に費用を負担する紛争当事者にはとうてい受け入れがたい。仮想市場法の利用は下手をすれば市民ファシズム的な状況をもたらす可能性もある。
 以上、レヴィナスの解釈を題材にしたが、その出自や振る舞いが「われ-それ」関係にすぎない貨幣経済を、「われ-なんじ」に転換するには限界があるのかもしれない。そこで考えられる方向性は、まず貨幣そのものを廃棄するというものである。要するに純粋な共産主義経済の方向であるが、これは貨幣のもつさまざまなメリットを台無しにしてしまい、たちまち経済社会は全体主義的な管理社会と化してしまうであろう。純粋な共産主義経済の前段階ですら失敗したことは歴史的事実である。
 次に考えられることは、オーソドクスなやり方ではあるが、貨幣の道具性をよくよく認識し、使用する側の人間の倫理性を高めるという方向である。倫理性を高めるという点ではレヴィナスの見解とそれほど変わらないのだが、その中身は「提言」独自の仏教理解と同義である。倫理性を高めるとは、まず環境そのものを、言語を発する主体と認めたうえで、それと「対話」し、「環境としての人間」の立場を自覚していくということである。そして、こうした取り組みには「持続性」が維持されなければならない。ここには、対話の重視や能動的な実践性は仏教の重要な特徴であるとの「提言」の仏教理解が反映されている。これは通常の仏教的な倫理観とまったく異なる「提言」独特の解釈であろう。
 さて、貨幣経済というものは、効率という点からは確かに理想的なシステムかもしれない。しかし、貨幣経済というものはすでに述べたようにそもそもの出自から「われ-それ」的であって、ことに資本(貨幣が自己増殖する価値へ転化したもの)というものは本来的に「われ-なんじ」関係とそぐわない。アルバート・ハーシュマンがかつて指摘したように、資本の性格は一言で言えばExit-Voiceに帰着される。それは投資持分の保持者として投資先の経営にものを言う(介入する)ができるし、いざというときは持分を処分して投資先との関係をいつでも清算できる(退出できる)。資本というものは自己の進退を自由に選択することができる。関係をつむいだかと思えばいつでも関係から離脱して、ほかのものと新たな関係を結ぶことができる。
 しかし、環境と人間との関係を考えた場合、貨幣あるいは資本制経済のこうした性格は根本的な解決を阻害してしまうように思える。「提言」では、環境問題は「持続的な」取り組みが必要であると述べており、『人生地理学』をひいて、「環境としての人間」の視点を示している。環境との関係を考えた場合、人間にはもはや選択肢というものは与えられていない。環境から離脱することは不可能である。金銭を支払うことで関係を清算することはできず、正面から対峙しなければならない。もはや環境を「われ-それ」関係のなかに置いて対象化して眺めることは不可能なのである。環境の価値は環境みずからに語らせるべきであり、貨幣に代弁させるわけにはいかない。貨幣を媒介にしてしか、事物の価値を認識できないことはそれ自体病理といえるし、人間精神のある種の脆弱性に由来するのかもしれない(もちろん、環境税や排出権取引のような、経済制度の中で行なわれる環境対策の意義は否定されるべきではない)。「提言」の言葉を使えば、「ドグマへの軽信や盲信、つまり『易き』につこうとする本然的な弱点」が見出される。こうした人間精神の宿業ともいえる脆弱性を克服し、貨幣経済の中で倫理性を発揮するには、強靭な生命力を喚起するような哲学・思想に立つ必要がある。そして、池田SGI会長の平和行動の裏づけになっている仏教思想はこのような性格を持つ。
 池田SGI会長は周知のとおり、世界中の学術団体から名誉博士・名誉教授の称号を受けている。その数は前人未到の多さであり、文字通り偉業といえる。なにゆえ世界中の知性が、かくもSGI会長を顕彰してやまないのだろうか。池田SGI会長の平和・対話運動の背景にある仏教思想に根ざした深い哲学性に魅了されるのであろう。それは、通常理解されているような内観的で静謐をイメージさせる代物ではなく、地球上の問題群の現実的な解決を志向した、きわめて実践性に優れた思想である。このような思想的背景に、世界中の知性は知的関心をかきたてられるだけでなく、人類の前途に希望を見出すのであろう。

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