「償い」の心はないのか、新潮よ!
  山岡政紀(創価大学文学部助教授)

 人は誰しも過ちを犯す可能性がある。大事なことは、自らの過ちに気づいた時にどうそれを償い、自らを改めていく契機としていけるか、ではないだろうか。
 昨年二月、ある法廷で裁判長が、傷害致死罪に問われる二人の被告少年に実刑判決を言い渡した際、歌手さだまさしさんの「償い」という歌を取り上げて、「この歌の歌詞を読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と述べて話題となった。
 「償い」──心を打つ歌である。死亡事故を引き起こした主人公の男性。被害者の未亡人に罵倒され、泣きながら謝罪した彼は、その後七年間、毎月未亡人に仕送りをつづけ、ある日未亡人から「もう送金はやめてください。あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」との手紙を受け取る──さださんの知人の実話にもとづく歌らしい。
 被告の少年たちは反省の言葉を口にするが、いかにも「しかたなく言わされている」様子だったという。さだまさしさんは法廷での出来事を知り、こうコメントした。「“謝る”というのは、心を込めなくちゃだめなんだということでしょうね」。
 言葉にも文章にも表情がある。文字面ではなく、その謝罪の心が相手に伝わるだけの表情を持っていてはじめて本当の謝罪と言えるのではないだろうか。
 この点、謝罪の心が全く伝わってこないのが「週刊新潮」だ。北新宿地上げ記事の件で敗訴し、創価学会に対する謝罪広告を掲載したのだが、問題の記事が中吊り広告でも大見出しで出ていたのに、謝罪広告は意識しなければ目につかないほど小さい。「しぶしぶ謝罪されられた」という態度が見え見えだ。そのうえ、その後も、性懲りもなく学会を誹謗する記事を掲載しつづけている。
 謝罪広告を週刊新潮の表紙に載せたらどうか!記者会見を開き、頭を机にこすりつけ、涙を流しながら、「創価学会の皆様、申し訳ありませんでした」と言ってみたらどうか!あるいは、その言葉を電車の中吊り広告を全部占領して、誰の目にも見えるようにしたらどうか!
 本当に心の底から謝罪したというその心が伝わってこない限り、ちっぽけな謝罪広告を何度載せようとも、学会員の怒りは収まらないということを、同誌編集部諸氏よ、知っておくがいい。

戻る