嗚呼、福本潤一!「心の貧困」の研究

山岡政紀(創価大学文学部教授)

 元公明党参議院議員・福本潤一は、『週刊現代』@2007年7月7日号・A同14日号・B同21日号の3回にわたり、創価学会と公明党との関係についてのインタビュー記事を掲載した。しかし、その中味は何の真新しさもない陳腐なもの。これまでの学会批判記事にない新しい点と言えば、自らの実体験を通して、貧しく卑しい心の世界を惜しげもなく披露していることぐらいか。この男の心がどれほど貧しいのか、分析してみた。
 断っておくが、福本に敬称などつけない。紙面でこれほどコケにされた創価学会の一員として、池田先生の弟子として、呼び捨てにさせてもらう当然の権利があると思っている。

名誉会長の誕生日や、創価学会の記念日には、必ずポケットマネーを出さなければならないのです。(現代@)

 もとよりこれは心の問題であり、お祝いをするかしないかは全く自由なはずだ。お祝いとは真心でするものである。強制されるお祝いなど、お祝いの名に値しない。
 平凡で愛情豊かな家庭なら家族の誕生日を真心で祝うのは当然だろう。まして大恩ある恩師の誕生日となれば、誰に言われなくてもお祝いをしたいと思うものだ。また、創価学会員ならば創価学会の記念日にはお祝いをしたいという気持ちになるのはごく自然なことだ。お祝いのしかたにもいろいろあるが、何か品物をお届けすることも自然な心の発露として当然あり得る。
 私自身も恩師の誕生日などにお祝いの品をお届けすることもあるし、共にお世話になった仲間とポケットマネーを出し合って一つの品をお届けすることもある。私はその何百倍何千倍もの大恩を、恩師である池田先生から受けている。今の自分があるのはすべて池田先生のおかげだと思っている。その御恩の大きさから見れば、時々のお祝いなど、本当にささやかな感謝の表現に過ぎない。
 公明党については、私はあくまでも部外者だが、議員の有志がポケットマネーで記念品を届けたとしても、別に不自然だとは思わない。池田先生に人間として育てて頂いた議員は大勢いるだろう。また、創価学会は公明党の最大の支持母体だ。学会員の献身的な支援活動に支えられて議員の仕事を得ているのだから、その創価学会の記念日にお祝いの品を届けるのも、ごく自然なことだと思う。私が公明党議員なら絶対にそうする。
 おそらく福本は議員仲間から有志の呼びかけを受けたときに、その真心が全くなく、格好だけの“志”を拠出していたということを、この記事で告白しているのに過ぎない。結局は、党内での自分の立場を守るために虚飾を施していたに過ぎない。嗚呼、福本!何と貧しい心根か。哀れとしか言いようがない。何と言っても、池田先生に失礼ではないか、この恩知らず!

公明党国会議員の重要な“職務”の一つに「本部幹部会」への出席があります。(現代A)

 創価学会員にとって本部幹部会は、日々の信仰活動の促進のために、自発的に参加する中心行事である。学会本部などで開催された模様はそのまま全国各地域の会館において衛星中継により放送される。ここに全国の何百万人という創価学会が喜々として自発的に参加する。大多数の学会員が求めているのは池田先生のスピーチである。
 たとえ議員であっても個人としての信仰は、憲法が保障する信教の自由に照らして許されているはずだ。だから創価学会も議員に対し、幹部会に参加してもいいですよと、門戸を広げているわけだから、心の広い創価学会だと言うべきではないか。福本も創価学会員である個人の信仰の発露としてその場に集っていたはずではなかったのか。それを“職務”だとはいったい何ごとか!
 本部幹部会に集いたい人は世界中に何百万人といる。そんな義務感で参加するような心の貧しい人間は、本部幹部会の清浄な空間に一歩たりとも入れてはならない。
 つまり、誰もが喜んで参加し、歓喜と希望があふれる本部幹部会に、福本だけは冷たい義務感で出席していたという貧しい本心を告白しているのにすぎない。結局は自分の地位を守るために、支持者や同僚議員に対して信仰心がある“振り”をしていたのであろう。

公明党幹部を呼び付け、学会幹部の面前で罵倒することもしばしばあるからです。(現代A)

 池田先生は会員同志を罵倒するような方ではない。そんな場面など一度も見たことがない。池田先生ほど謙虚で誠実な方はいない。創価学園入学以来、30年以上も池田先生を見てきた一人として、絶対の自信をもって断言する。
 ただし、どの分野であっても師弟の関係というものは峻厳である。第2代会長・戸田城聖先生の訓練は厳しかったと、池田先生はしばしば述懐されている。その意味で、峻厳なる師弟の訓練が行われる瞬間を拝することもある。創価大学においても創立者として学生を叱咤激励された厳愛の瞬間に立ち会ったことがあった。そのことは私の創大教員生活の尊い原点ともなっている。
 弟子ならばどんな厳しい訓練も受けきっていける。しかし、同じ現象でも清浄な心には甘露の雨と映り、卑しい餓鬼の心には炎と映ると、仏典には記されている。
 福本には池田先生の厳愛の指導が、罵倒に見えるらしい。自身の境涯の貧しさを告白しているようなものである。安心したまえ。おまえなぞ池田先生の弟子ではないのだから、叱咤激励はおろか、いっさい見向きもされないから。

そこで議員たちは、自分で車を運転したり、電車を使ったりして会場に向かいます。もちろん、黒塗りの公用車は使いません。(現代A)

 そもそも何でこんなことをわざわざ言うのか。例えば、営業マンが外回りの報告を上司にする際にいちいち地下鉄で行ったかタクシーで行ったかなどということを話題にするだろうか。それに、自分で車を運転したり、電車に乗ったりするのは、普通の市民なら当たり前のことである。議員がもしも家庭の買い物や余暇に公用車を使ったら、紛れもない公私混同である。信仰活動も個人の心の発露なのだから私用に決まっている。公用車を使わないのは当然のことだ。
 しかし、福本にとっては信仰の発露は全くなく、本部幹部会への参加を“職務”と思っているぐらいだから、電車を乗り継いで行くのが面倒くさかったのだろう。そこに持ってきてわざわざ、“黒塗りの”という形容句を添えるところが奮っている。俺さまはいつも“黒塗りの”公用車を使っている偉い議員さまだぞ、そんな俺さまに電車で来させやがってけしからん、とでも言いたげな、高慢ちきな匂いがプンプンしている。

例えば報告書は、「お元気でいらっしゃる先生と奥様に見守られ……」などと、名誉会長を崇める文面から始めるのが暗黙のルールなのです。(現代A)

 これもまた心の問題である。報告書といっても手紙の一形態であるから、そこに何を記すかは全くの自由である。自分の思いをそのまま書けばよいのである。
 そこに何かしらの暗黙のルールがあるなどという話はいまだかつて聞いたことがない。そもそも誰の報告書も同じ挨拶文から始まっていたとしたら、それこそ心の通わない社交辞令になってしまうではないか。自分の言葉で書くからこそ、本心が伝わるというものである。
 そのうえで上記の文面を一つの文例として見たときに、これを「崇める文面」と評している時点で既に心の貧しさが表れている。「ごくごく普通の人間的な親愛の情」の、一つの表現と言うべきだろう。どこが「崇めて」いるのか?いや、どこまでおまえの心は貧しいのか?全くもって失礼千万な男である。
 おそらく福本は、心が貧困なために報告書に書く言葉が思い浮かばず、他の議員が書いている文面を真似て書いていたのであろう。どの人もそれぞれ本心から文面を書いているのに、福本だけはその心が全くなく、虚飾の文面を書いていたのだということを、これまた告白しているのに過ぎない。結局は、単に周囲の眼を過剰に意識して、格好をつけて書いていた、その息苦しさをあたかも強制力であったかのように言っているだけである。

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